Interview w/ Kensuke Sasaoka
男子パークシーンのフロントランナー 笹岡建介・インタビュー
つい先日オリンピックが一年程度延期されることが正式に発表されたが、それでもスケートボードはストリートとパークの男女の計4種目が行われることは変わらない。それぞれに注目のライダーはいるが、男子パークの一番手と言えば間違いなく彼になるだろう、笹岡建介だ。スケートボード一家である笹岡家の末っ子として生まれた彼は、常に先を行っていた兄たちに揉まれて切磋琢磨しながら、今やトランジションマスターとして日本を代表するライダーにまで成長した。
しかしコンテストの結果だけを見ると、まだ世界大会で決勝の舞台に立てていない現状からして、男子パークは世界に遅れをとっているという見方ができるかもしれない。それにオリンピック出場ポイントが獲得できる大きなコンテストにおいては、一般の大手メディアが“過程”ではなく“結果”を優先して報道するので、それも一助となっているのだろう。
だが当の本人は、ケガに悩ませられながらもこの数年間世界と戦ってきたことで、上位進出へ向けて確かな手応えを感じとっているようだ。ここでは彼の人物像に加え、“結果”だけではなく、そこに至る“過程”にもフォーカスして、来たるべき戦いにそなえる彼の生の声をお届けしていきたい。
Text and Photos:Yoshio Yoshida
スノーボードのオフトレで始めた
まずはスケートボードを始めたきっかけから教えてもらえますか? やはり家族が影響しているのでしょうか!?
「スケートボードは4~5歳の頃にスノーボードのオフトレで始めたんですよね。なのでスノーボードは3歳頃からやってましたね。お父さんとお兄ちゃんがやってたから、それについて行って自然とやるようになった感じです。その流れで、お兄ちゃんがスノーボードでハーフパイプに入るためにはパンピングが必要だってことでスケートボードも始めたので、同じように自分もついて行って始めました。もちろん当時は今のようにHi-5(※1)はなかったので、最初は小牧(川西)に行ったり、京都の火打形に行ってましたね。そうしたらスケートボードは季節関係なく年中できるから、自然とこっちがメインになっていきました。自分は男だけの3人兄弟なんですけど、兄弟全員同じ流れでスケートボードの方にハマっていったんですよ」
※1 愛知県あま市にある笹岡一家が練習の拠点としているスケートパーク
では具体的にどの瞬間に「スケートボードにハマッた!」と感じましたか?
「兄弟3人でプラットホーム(※2)に立っているときですかね。自分は常に3兄弟で滑ってたんですけど、スノーボードの場合はロールインすると一人だけ先に行っちゃうじゃないですか!? それに一回滑り降りるとまたリフトに乗るっていう手間もかかります。でもスケートボードにはそれがなかったので。自分のランを終えてもすぐにプラットホームに上がれるし、そこにはいつもお兄ちゃんたちがいて、ヤバい滑りも見れるし、トリックをメイクした瞬間は自分のことのように喜べる環境だったので、心底楽しかったです」
※2 バーチカルやクォーター、ボウルなどのセクションの上の土台のこと
今ではパークで日本を代表するライダーになりましたが、コンテストにはいつ頃から出場するようになりましたか?
「初めて出たのは小学校4年生のときですね。スケート歴5年弱の頃だったと思います。それからは火打形で行われたAJSAのアマチュアサーキットには毎年出てました。一応プロ資格も持ってるんですけど、今のように地区予選を突破して全日本アマチュア選手権で決勝に残ってっていう形ではなくて、2012年に大阪の原池公園であったコンテストで獲得したんです。このときはストリートではなくボウルのコンテストだったのもあって、プロアマオープンだったんですよね。なのでプロ資格はなかったんですけど出場して、そこで一発優勝できたのでプロ資格をゲットすることができました。当時12歳だったかな。日本を代表するトランジションマスターが集まっていた中だったので本当に嬉しかったです。そんな経緯もあって、スケートボードがオリンピック競技に決まって種目が発表されたときも、自分は迷わずパークを選択しました。ずっと昔からパークの方を滑っていたし、ボウルの方が楽しいと思っていたので」